2009年12月17日

現在の遊水地

遊水地内には道路があるため、水が貯まっている場所以外は内部に行くことは可能である。
谷中湖の北には藤岡町商工会、農業協同組合が出店しており、バーベキューが行える場所もある。(平日や冬季を除く)ゴルフ場も複数存在する。
レンタサイクルは、道の駅きたかわべ、板倉東洋大前駅東、谷中湖北など4か所にある。(定休日あり。冬季、平日は営業していない場所もあり)

ただし、これらの利用されている地域は、渡良瀬遊水地のほんの一部であり、残りのほぼ全域は、未だ自然の豊かな葦原となっている。

花火大会などの会場になっているほか、隅を高圧線がかすめる以外は電線もないため、熱気球、スカイダイビングなどのスポーツも行われている。トライアスロン大会も多数開催。

元々は洪水対策目的の施設であり、降雨直後などは、全体が水びたしになる。利根川に流しきれない渡良瀬川の水をいったんこの地に貯め、利根川の水位が下がってから、徐々に遊水地内に貯めた水を放水する仕組みになっている。したがって、降雨時、降雨直後に遊水地内に立ち入るのは危険が伴う。

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谷中湖は湖底がコンクリート張りの人造湖であり、渇水時に東京地方に水を供給するための貯水池という位置付けがされている。したがって、首都圏の水がめである利根川水系8ダムの一つに数えられている。1976年着工、1989年竣工。落成直後の1990年夏、谷中湖から放水した時期に下流の水道水が臭いという苦情が殺到した。ただし、この騒ぎはその後生じていない。
釣りができ(入漁料が必要)、非動力船も利用できる。このため、この種のウォータースポーツが盛んであり、第59回国民体育大会(彩の国まごころ国体)でセーリング競技も開催された。

2009年12月01日

淡路国の状況

『延喜式』によると、淡路国は旬料・節料として「雑魚」を贄として納めることが記載されている。以下でも述べるように、淡路国は海人(あま)を束ね、高橋氏と同様に内膳司の地位を争った阿曇氏が支配していた地域であった。また若狭国・志摩国と同様に田畑が少ないにも関わらず一国として成立していた特殊性を見ることもできる。

これらの贄は、都へは上り、下りとも7日間を要したとある。陸路より日数が掛かっており、運搬は船を使って平安京に運ばれたと考えられる。
膳氏(かしわでうじ)は皇室や朝廷の御饌(みけつ)を担当した伴造氏。後になり高橋氏と改めた。膳氏の出自を示した『高橋氏文』には、景行天皇が東国に行幸したおりに、安房国にて磐鹿六雁命(いわむつかりのみこと、膳氏の始祖とされる)が蛤(はまぐり)を捕り、天皇に料理をして献上したところ、天皇の子孫代まで御食(みけつ)を供するよう膳臣を授かったという記述がある。

『高橋氏文』そのものが高橋氏の正統性を誇示する目的と考えられるため、全てを史実として受け入れることは困難である。しかし、膳氏(高橋氏)が6世紀には膳職の伴造の地位につき、東国とのゆかりが深いとする説が有力である。
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『高橋氏文』には始祖の磐鹿六雁命(いわむつかりのみこと)が死去した際に、「稚桜部」(わかさくらべ)の号が送られたとの記述がある。若狭の地名は「稚桜部」が由来であるとする説があり、若狭国との関係も伺える。実際に福井県の膳部山は膳氏の名前が由来であると言われ、膳部山周囲に多数の前方後円墳が残る。このため、一部では膳氏は5世紀から6世紀には若狭周辺の支配者であったとする説が支持されている。

2009年11月27日

士官が充てられるポストとしては

士官が充てられるポストとしては、艦長、副長、先任将校、航海長、機関長、水雷長、通信長などがある。艦長の階級は、戦時中の日本では少佐、ドイツでは大尉が普通であった。潜水艦には冷房装置が備えられているものの、多くは動力の冷却などに使われるため、室温が25度を下ることはなかった。敵艦に接近する場合は聴音されるのを防ぐため冷房装置を停止させたので、より高温になった。また、潜行中は水圧の関係からトイレも使用できなくなった。士官や下士官は通路の脇に設置されたベッドで就寝し、下級の兵士は魚雷の部屋の空いたスペースに雑魚寝した。

日本の潜水艦の場合、食事は主食に白米・乾麺、副食に乾燥野菜(切り干し大根など)と缶詰、漬け物各種の他、比較的保存しやすい生鮮野菜としてタマネギとジャガイモ(とはいえ、これらの生鮮野菜は一週間程度で底をつく)などを材料とした各種のメニュ−が供された。ドイツの潜水艦の場合、ほぼ毎食が、「主食はサラミソーセージとチーズやバター、艦内でまとめて焼かれる黒パン、付け合わせとしてザウアークラウト、生鮮野菜としてのタマネギとジャガイモの煮込み、デザートでレモン(ただし日本の潜水艦と同様に、生鮮野菜や果物は一週間程度しか供されない)」であった。これらの食事では、当然のごとく各種栄養素が不足する。このため、東西の潜水艦乗員はビタミン剤をはじめとするサプリメントの大量補給が必須であった。
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現代の米国海軍原子力潜水艦では、艦長と副長のみ個室が与えられる。艦長室を使用できるのは艦長のみであり、艦長より上級の士官・提督が乗り込む場合、上官は副長室にある予備のベッドを使用する。その他の乗組員は専用のベッドを与えられるが、さらに下級の乗組員は一つのベッドを3人3交代で使用しなければならない。

過酷な任務に就くため、食事は海軍の中でも最も充実していると言われる。

一方、旧ソ連・ロシア海軍の原子力潜水艦は、極端な省力化により乗員を減らし、大きな艦内スペースを確保した例もある。艦内にプールなどの娯楽施設を供えた艦もある。ただし省力化による弊害もあり、原子炉の事故などに対応出来ないなどの問題も生じた。

2009年11月13日

南蛮への関心

南蛮品を好み、正親町天皇を招き開催した『京都御馬揃え』にビロードのマント、西洋帽子を着用し参加した。晩年は戦場に赴くときも、南蛮鎧を身に付けていたと言われている。アレッサンドロ・ヴァリニャーノの使用人であった黒人に興味を示して譲り受け、彌介(やすけ)と名付け側近にした。
イエズス会の献上した地球儀・時計・地図などをよく理解したと言われる(当時はこの世界が丸い物体であることを知る日本人はおらず、地球儀献上の際も家臣の誰もがその説明を理解できなかったが、信長は「理にかなっている」と言い、理解した)。好奇心が強く、鉄砲が一般的でない頃から火縄銃を用いていた。奇抜な性格で知られるが、ルイス・フロイスには日常生活は普通に見えたようである。ローマ教皇グレゴリウス13世に安土城の屏風絵を贈っていたが、実際に届いたのは信長の死後の1585年であったとされる。なお、この屏風絵は紛失している。
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囲碁(名人という言葉は信長発祥と言われている)・幸若舞を好み、猿楽(能)を嫌った。幸若舞『敦盛』の一節「人間五十年、下天の内を較ぶれば、夢幻の如く也。一度生を享け、滅せぬ物の有る可きか」という部分は、信長の人生観と合致していたのか、特にお気に入りで、よく舞ったと言われている。
大の相撲好きで、安土城などで大規模な上覧相撲をたびたび開催した。また、相撲大会は身分問わず、信長の側近と庶民が入り混じって相撲をとっていたと言われる。そのほか水術、鷹狩、馬術、弓術などの身体鍛錬、武術鍛錬に繋がるものを趣味としていた。
三好義継が敗死したとき、坪内という名のある三好家の料理人が織田家の捕虜となった。このとき、信長は坪内に対して「料理がうまければ罪を許して料理人として雇う」と約束した。

2009年11月02日

実際に遠洋漁業が始まったのは

実際に遠洋漁業が始まったのは、明治時代における外国と日本(当時は大日本帝国)との関係が直接的な原因になっているが、飢饉に見舞われているわけではないにしろ日本の人口増が起きたことや、幕藩体制の崩壊による士族の困窮なども少なからず背景として考えられる(「陸地から遠い」という意味で遠洋漁業が定義されたのは現代になってから)。

1871年(明治4年)の廃藩置県によって体制弛緩が起きると、沿岸漁業において、新規に漁業を営もうとする人々が漁場に入り込むようになり、江戸時代以来の漁業慣行に動揺が生じた。1890年(明治23年)になると「官有地取扱措置」が定められ、海面の使用は許可制、水面使用料を徴収することとなり、沿岸における漁業紛争の解決に筋道が出来た。
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1891年(明治24年)および1893年(明治26年)に、北太平洋海域におけるラッコ・オットセイの捕獲条約がイギリス・アメリカ合衆国・ロシアの間で締結された。すると、条約範囲外の海域での自由な操業を求めて外国猟船が南下し始め、親潮に乗って千島列島沖から、現・福島県いわき市塩屋崎沖の日本の領海まで進出し操業するに至った。日本政府が、1895年(明治28年)のラッコ・オットセイ猟法、1897年(明治30年)3月に遠洋漁業奨励法を公布すると、日本の海獣猟業も急速に発達し、外国猟船の締め出しに成功した。

日露戦争期の1905年(明治38年)になると、遠洋漁業奨励法は改正されて奨励金の率が高められた。すると、今度は日本猟船が急速に北太平洋に進出するようになり、海獣のみならず、魚類や鯨類などの海棲生物に対象も広げられていった。

2009年10月23日

重要財産開示拒絶等の罪

破産者が第41条の規定による書面の提出を拒み、又は虚偽の書面を裁判所に提出したときは、3年以下の懲役若しくは300万円以下の罰金に処し、又はこれを併科する(破産法第269条)。

破産手続開始の前後を問わず、債権者を害する目的で、債務者の業務及び財産(相続財産の破産にあっては、相続財産に属する財産)の状況に関する帳簿、書類その他の物件を隠滅し、偽造し、又は変造した者は、債務者(相続財産の破産にあっては、相続財産)について破産手続開始の決定が確定したときは、3年以下の懲役若しくは300万円以下の罰金に処し、又はこれを併科する。第155条第2項の規定により閉鎖された破産財団に関する帳簿を隠滅し、偽造し、又は変造した者も、同様とする(破産法第270条)。
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債務者が、破産手続開始の申立て(債務者以外の者がしたものを除く。)又は免責許可の申立てについての審尋において、裁判所が説明を求めた事項について説明を拒み、又は虚偽の説明をしたときは、3年以下の懲役若しくは300万円以下の罰金に処し、又はこれを併科する(破産法第271条)。

偽計又は威力を用いて、破産管財人、保全管理人、破産管財人代理又は保全管理人代理の職務を妨害した者は、3年以下の懲役若しくは300万円以下の罰金に処し、又はこれを併科する(破産法第272条)。

2009年06月22日

対戦車地雷(たいせんしゃじらい)は

対戦車地雷(たいせんしゃじらい)は、主に戦車などの装甲戦闘車両を破壊する事を目的として使用される地雷である。

一般に、軍用車両は底部の装甲が最も薄いため、地雷による攻撃はかなり有効な手段となる。故に、5から10kg程度の火薬でトラックや装甲兵員輸送車等を十分に破壊することができ、軽戦車を横転させ、主力戦車に対しても履帯やサスペンションを破壊するなどの威力がある。

70kgから130kg以上の加重で起爆するようにされており、これは武器弾薬等を携帯した兵士が踏んでも起爆せず車両を攻撃する為である。磁気吸着式により、車両に吸着させるタイプや、有人管制により手動で起爆させるタイプもある。地雷除去を防ぎ、殺傷力を上げるために対人地雷とセットで埋設されることがある。人間が踏んでも起爆装置の中心点を踏めば起爆しないが少しでも中心点を外れた部分を踏めばテコの要領で起爆する重量に達してしまい起爆してしまう。そのため現在の陸上自衛隊での教育時にも対戦車地雷だからと言って踏んでも問題ないわけではないことを十分に教育している。
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対戦車地雷に対抗する為には、車両の底部の装甲を厚くしたり、二重にする、車両床を高い位置にし爆風を逃がすV字型にする、装輪数を増やすなどの方法がある。

爆薬が不足している軍・武装勢力においては榴弾砲や迫撃砲の砲弾や航空爆弾を地面に埋め込み、対戦車地雷として利用した例がある。

第二次世界大戦中、旧日本軍の場合、兵士が地雷を背負って敵戦車の前に身投げしたり、タコツボ(一人用の壕)内で爆弾を抱えてうずくまり、敵の接近に合わせて信管を叩いて起爆させる「人間地雷」戦術を実行している。また、ソ連軍はエンジンをかけた自動車の下で餌を与えることにより、条件反射で自動車の下にもぐりこむように訓練した犬に爆薬をくくり付けてドイツ軍車両を破壊する地雷犬を実戦に投入している。さらに各国でも地雷を埋めておくのではなく、兵士が自陣を蹂躙する敵戦車の履帯前に投げ出す、棒の先に付けて突き出す、時限式信管を取り付け機関部やハッチ上に載せる等して破壊するという戦術も取られた。

パレスチナでは重装甲で知られるイスラエル国防軍のメルカバ Mk 3戦車を、遠隔操作により地中に埋めた手製の爆薬で、イラクでは対戦車地雷を積み重ねる事によりアメリカ軍のM1A2SEPエイブラムス戦車を、完全に撃破した。

2009年06月05日

武衛家の滅亡

斯波氏は1554年、ついに斯波義統が守護代の織田信友に殺される事件が起こる。嫡子の斯波義銀は織田信長を頼った。信長にとって信友は本家であると同時に主君筋であった。しかし、信友が守護である斯波氏を討った、すなわち、守護への反逆をおこなったため、信長はこれを口実に信友を滅ぼすことに成功した。さらに信長は諸国の目を欺くため、一時、隠居し所領のすべてを斯波氏に返上した形をとり、吉良氏、今川氏との同盟を結んだ。

この時のエピソードとして、斯波氏が吉良氏と同盟する折、信長は義銀に随従し、同盟相手である吉良義昭への会見に臨んだが、席次をめぐって対立を起こしたという。吉良氏は「足利将軍家が滅んだ後は吉良氏が将軍職に」と定められた将軍継承権を有する家であったが、斯波氏も鎌倉時代以降、足利の名字を有し続け、幕府にて高い格式を誇り、引け目はないと主張したのである。ともあれ、いさかいを起こしながらも、一応同盟を結んだ両家は次第にともに共謀して反信長に結束することになる。

1561年に義銀は吉良義昭や、斯波氏の一族で幕府の重鎮の家柄であった石橋殿を味方に引き入れ、信長討伐の陰謀を図るものの、未然に発覚して追放された。これによって斯波氏は事実上滅亡した。

義銀の次弟は毛利秀頼として織田信長に仕え、三弟は津川義冬として信長の次男 織田信雄に仕えた。しかし、大名としての斯波氏嫡流が復活することはなかった。後に前田利家の家老として斯波氏の一族が確認されるのみである。
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奥州斯波氏(おうしゅうしばし)は奥州に定着した斯波氏の庶流をいう。高水寺斯波氏、大崎氏、最上氏、天童氏(元々は里見系、斯波家兼の系統)、石橋氏、塩松氏などがある。

そもそも斯波氏の名乗りの起源は陸奥紫波郡とされており、奥州は斯波氏にとっては本貫である。南北朝時代には斯波家長、ついで斯波家兼が「奥州総大将」として奥羽での軍事指揮権を発動した。その後、奥州総大将は軍事指揮権だけでなく、検断、沙汰の権限、管国内の知行安堵、恩賞などの推挙権を持つ奥州管領に格上げされる。観応の擾乱期には畠山国氏、吉良貞家らが任ぜられたが、斯波家兼の子孫である斯波奥州家がやがて就任し、世襲する。

奥羽は南北朝期から、郡ごとに有力国人に軍事指揮権や権断権など強い権限を与えた「分郡」とも呼ばれる独自の制度があり、非常に有力国人の力が強く、奥州管領の斯波奥州家も大崎郡を分郡として引きこもる傾向が強くなり、大崎氏と呼ばれるようになる。一時奥羽は鎌倉府管内に編入されるが、奥州探題職が作られた後は、大崎氏が代々探題に就任する。探題は管領と同じ権限を持ったと思われるが、のちに奥州の有力国人は将軍家と直接主従関係を結ぶ「京都扶持衆」となり、奥州南半には篠川御所、稲村御所など鎌倉公方の分家が入府し、勢力を持っていたため、奥州管領時代のような威勢は無くなった。 やがて大崎氏は次第に膨張する伊達氏の圧力をまともに受けることとなり、衰退する。大崎義直は家中の騒乱を自力で鎮圧できず、伊達氏から養子を迎えることで支援を受け鎮圧した。その後養子大崎義宣を排除し自立を果たすも伊達氏の圧迫を受け続ける。伊達政宗が大崎征伐に乗り出すと苦戦を強いられたが、最上氏庶流の黒川晴氏が大崎方に寝返ったことで家の命脈だけは保つことができた。

しかし、結局大崎氏は、小田原参陣に呼応しなかったため、改易された。子孫は最上氏に仕えた。

2009年05月02日

物質循環とエネルギーの流れ

生態系内の物質は、様々な形で循環していると考えられる。

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個々の元素を見ると、このような関係の中で、食物連鎖や分解によって生物環を移動し、ある時は非生物的な環境を経由して生物のところに戻る、大きな循環をなしている。これを物質循環という。

これを炭素を中心に見れば、光合成で作られた有機物が食う食われるの関係の中を移動し、また動植物遺体や排泄物等を通じて分解者へ流れる。また、個々の生物の呼吸によって有機物は二酸化炭素として排出され、一部は光合成に利用され、また一部は大気に逃げ、あるいは水に溶ける。これらを炭素の循環という。

窒素や硫黄を中心に考えた場合、炭素とはやや異なった循環がある。特に窒素は生物体にとってタンパク質の材料に必須の元素である。動物は窒素同化能が低いので、無機窒素を排出する。植物は無機窒素を吸収して有機窒素化合物を合成できる。したがって、動物は植物が合成した有機窒素化合物に依存している。大気中には気体窒素が多量にあるが、生物はほとんどこれを利用できず、落雷などの際に合成されるアンモニアの形で、あるいは一部の窒素固定能のある微生物の働きを通じて利用可能となる。

物質は生態系の中を循環しているが、エネルギーは流れている。動物の活動のエネルギーは、元をたどれば植物の光合成によって合成されたものに依存している。光合成は太陽エネルギーによっている。

2009年04月18日

士会(しかい、生没年不詳)

士会(しかい、生没年不詳)は中国春秋時代の晋の武将、政治家。姓は杜、氏は士、もしくは封地から随、范、諱は会、字は季。謚は武。范武子とも呼ばれる。士蔿の孫。士穀の弟。士燮(范文子)、士魴の父。

士会は末子と言う立場上(字の季は末子を指す。)、家を継げる立場に無かったが、紀元前632年の城濮の戦いに従軍し、その後に晋軍が帰還する時、文公に車右に指名された事で大夫となり、別家を立てて独立した。

それから11年後の紀元前621年の襄公の死後に、正卿趙盾の命によって秦にいた公子雍を新たな晋君として迎える為に、卿の先蔑とともに秦に向かったが、士会達が秦にいる間に晋では襄公の子の夷皋を立てる動きが強くなり、士会達は急遽晋へと呼び戻され、趙盾も心変わりして夷皋を立てて霊公とした。

何も知らずに晋へとやってきた公子雍を趙盾は令狐にて攻撃し、士会はこれに怒って秦へと亡命した。そして秦康公に仕えたが、同じく晋から亡命してきた先蔑には一度も会わなかった。その後、士会は康公の軍事顧問となり、紀元前615年の河曲の戦役では晋の軍隊を次々と撃破する等の軍才を示した。

帰国、そして再仕官 [
翌紀元前614年、士会は彼の軍才に着目した郤缺の策略により晋へ連れ戻され、再び晋の大夫に取り立てられる。その際封地として随や范の地を与えられた事から、士会の家は范氏とも呼ばれるようになる。士会は度々、趙盾と対立している霊公の乱行を諌めたが、霊公はそれを聞き入れる事無く、紀元前607年に暗殺されてしまった。

邲の戦い
紀元前597年、鄭を救援する為に晋が出兵した際には、終始楚の荘王との和睦を主張するも邲の戦いが起こる。その際、中軍の将を務めていた荀林父が、楚軍の猛攻に対応しきれず、「一番早く河を渡って退却したものに褒美を出す」と全軍に布告したため、戦闘放棄をする兵が増えてしまい、徹底的に叩かれる。趙朔率いる下軍も中軍があっという間に壊滅したため、攻撃を支えきれず敗退した。結果、晋軍は大敗した。しかし、士会の指揮する上軍のみは損害を出すことなく退却に成功している。
大航海 だいこん バント しじょう ハレー ポル国内 トップス アッチラ シャボン ラゴン リーマン ラグソール ラセボ カスト ボール リリヤン レーション マッシ セレナ インター キルン バターク ロスメン ダルコ スキャ イチク スピッ シック ジッグ アグラ ラストシ オフサイド ローアン ソース ノズル ジラフ ヱスビ ラインビ ガスボンポ テミズム マスター てんゆう スカーフ ストライ ション スト ロース バミュー デル チョウゲ

正卿になる
後の紀元前593年3月29日、士会は荀林父逝去の後を受けて、正卿(宰相)・中軍の将に就任する。その際、士会の手腕をおそれて、盗賊がみな秦に逃亡したという記述が春秋左氏伝にみられる。同年冬には周の内紛を収め、定王からもてなしを受けるも、その礼を知らなかった事を恥じて、帰国後に典礼を研究して新たなる法を定めた。その法は後に「范武子の法」として、祖父の士蔿が作った法と共に晋で長く尊重される事になる。

士会は宰相の位は2年間で引退するものの、春秋左氏伝は「晋の歴史上、士会こそが最高の宰相である」と士会を絶賛している。死後、その大活躍から諡号の中では二番目に尊い「武」を諡され、范武子と呼ばれる。